ライブに行きたい、けどなあ。

16日にNHK-BSで放送した「ボブ・ディラン30周年ライブ」を見た。1992年ニューヨーク(マジソンスクウェアガーデン)での収録で、今回の来日の前祝いだが、これ以上ないというくらい豪華絢爛な面々の参加であった。来日とは言え、かれこれ20年以上前のライブが何故に来日に合わせた放送だったのか?内容を今回始めて見てわかった。
そもそも、こういうイベントはお祭りの余興なのが多いが、これは違う。幅広い音楽家と音楽がこれほど、濃く集まった例も少ないだろうなあ。「ライブエイド」や「夏フェス」とは違う「筋の通り方」なので、恥ずかしい事は出来ない様な場の雰囲気がまずあるなあ。
いわゆる、仲の良い仲間のお祭りじゃなかった。中でも、ジョニー・ウィンターは、どういう縁で出て来たのかもわからない。ただし、その独特な態度と瞬間沸騰の熱演で意味が解明した様な気になった。

それと、当時一番の話題だったのはシニード・オコナー。映像を見たのは始めてだったのでかなり驚いた。政治的かつ思想的に明確な立場でモノを言う彼女のたち振る舞いと、あの澄み切った大きな瞳のバランスが、どうにも危なく見えて、会場中で響いた「諸事件に対するブーイング」と同時に彼女に対する心配が混じっていた。元々歌う予定だったディランの歌ではなく、ボブ・マーリーの歌から叫び始め、最後は思想のアジテーションだったから、観衆は一瞬確信犯的なニュアンスも感じつつ、複雑な思いのまま結局演奏せずバンドは引っ込んだ。舞台袖で泣いているのがわかった時には、オラもグッときてしまった。

これを見て思い出したのは、ワイト島フェスのジョニ・ミッチェルだなあ。状況は違うけど、大観衆とたった一人の女性が堂々と渡り合う場面だ。一般人には予想も出来ない状況だ。こういうのを見るとグッと来てしまうのは何故か?考えた。

歴史や経験則的なモノではないし、ましてや科学や医学で解明出来る筈もなく、簡単に言ってしまえば、動物的で本能的なのか?いや、違うな。人の経験に基づく、意思の問題だと思うな。だから、グッと来ない人も半分以上いた筈で、グッときちゃった人同士が、集団を作るんだろうな。普段、コンサートでは、好きな音楽やミュージシャンで成り立っているから、こういうイベントでしか見受けられない、ということなんだ、な。

それと、もうひとつ。あの現場にいなかったから、記録された映像を観衆より「音楽として」冷静に見ていて、非常に完成度が高かった事に感銘を受けた。

言いたい事がまとまってないな。ま、いつものことだけど。
ついでに言うと、ああいう現場にいるよりも、記録された音楽の方が興味ある、ということ。もちっと言うと、最近気がついたのだが、音楽の好きな興味が人と違うのが、ごく最近気がついた。「記録された音楽が好き」つまり、レコードが好きなタイプだったんだなあ。特に最近ライブに興味がなくなったのは、ライブならではのスリルがないからだと思う。レコードと同じ様な音じゃつまんない。だったらレコード聴いていた方が楽しい。ライブよりもレコードが好きという話しではなくて、ライブとレコードは違う。レコードを越えるライブは殆どない、って事なんだけど、まあ、理解されないだろうなあ。あんまし。

言いたい事がまとまってないな。いつものことだけど。