東京的か宗教的か

大学時代に「教職」課程を執らなかったのは自分的には正解だった。どこの協会に所属もしてないのも楽だ。賞にもこだわらずやって来たのも自分らしい。ましてや、権威にならなくてヨカッタ。
同年代の仕事仲間で、今では京都の大学教授に「君は凡庸だ。」と言われたのも今になって思えば、簡単に「東京的なモノ作りのスタンス」が理解されたくない意地もあったのは、目立つ事=ハッタリがカッコわるいと思っていたからだな。
つまり、他と馴染めなさそうで実は周辺の動向や情報を気にしながら一人でさっさと行動しちゃう「非常に東京的なスタンス」でやって来れたのは、地方から覚悟を持って上京して来た訳ででもないし、帰る場所もない。力みもないしな。東京が地元なのである。渋谷が落ち着く場所なのだ。東京が普段の代表なんだ。
普段が大事というのは、ボクの中では「お祭りにも参加しない。」という意味である。実際、子供の時から地元のお祭りにもあまり行った事ない。中学生の頃に「御神輿担ぐのに熾烈な順位争いと地元への貢献の度合いを計られる一連の政(まつりごと)」に嫌気があった。
最近よく耳にする「この思い届けて〜」とか「思いが伝われば〜」とかも自分的には薄いのは、こういった一連の現象から感じた社会的構造を子供の時から理解して外側から見る側の立場なんだと思い込んでいたからだろうなあ。
「お寺」とか「葬式」とかも、決まり事だからという様な漫然とした考えは持っていない常に疑問視している。特にこれらは怪しい。怪しいからといって元から全て疑っている訳ではない。無宗教だが、宗教の大事さは知っているつもりだ。漫然とした頼み方の方が問題が大きい、と思っちゃう。
農作物の祝祭が祭りだとしたら、時代的にはすでに無くなって良い。庶民が楽しみだけを残して「祭り」を何かの良い訳にしているのが好きではないなあ。
今日は完全な乱文だな。自分でも気持ちはわかるよ、って感じだな。