解明不可能な「本質」について

藤圭子の事件には「ビックリ」と「やっぱりなあ」だった。以前テレビで喋っているのを見て結構危ないと思ってた。若い時の美しさと歌の迫力、純粋ゆえの極端な奇行、というギャップそのものが魅力でもあったというのは矛盾だけど、モノ作りの現場では、解明不可能な「本質」なんだ。
ボク自身は仕事では接点がなかったが、子供の学校(インター)が同じだったので、迎えの時に名前を呼んだらヒカルちゃん(ウチの子も同じ名前)だった事があった。学校での歌会では尋常でない巧さで、「天使にラブソングを」のローリン・ヒルを連想した。モノマネに近い部分も感じて耳がいいんだろうなあ、って思った。ニックネームも可愛かったし、毎年作る写真アルバム(イヤーブック)のポーズ写真も今見ると楽しい。
売れに売れたデビュー盤のプロデューサーはボクもお世話になったMさんだったし、ジャケットはKさんの撮影。スタイリングはあのKM先生。同じ業界ですぐそばにいたけど、遠くに感じてた。
今、危ないなあと思う人に、鬼束ちひろがいる。彼女も単なる「ぷっつん」ではなく、何かの「警報」を出していると思う。かつてボクの周りにはこういう「イノセンス」そのものが何人かがいた。長く生きれない存在なのだ。