ドラマの様

今週でほとんどのテレビドラマが終了。次のクールになる前には特番が入る。成る程なあ。すっかり見ちゃったなあ。テレビドラマなんてガキの頃以来だ。N局の「朝ドラ」も見た事ないし。つまり、家にいなかった、ということだな。つーことは最近、夜は家にいたってことだな。ケーブルテレビの録画が大容量だってことな。(「な」が多いのは精神的に安定しているからか?な?)
局のカラーは案外昔と変わらないなあ。T局は良い意味で「やや右」だ。皇室番組のための姿勢も濃い様な気もする。F局は、天真爛漫、豪華絢爛。「生きている間が華なのよ」的で、敢えて言えば「刹那的」。ドラマの作りにも大きく反映していると感じる。N局は全国を意識した作りに他局に比べて無理なく作る技術力が定着し、T局は、「こうであって欲しい」的な典型的ハッピーエンドが多い。F局は「所詮人生はこんなもの」でリアルさは常に良い悪いの判断基準になっている、ように思う。他の局のドラマも見たけど、1-2回で見なくなった。理由は、連続ドラマの面白さが今っぽくない、って事だろうなあ。
気がついた事のひとつに、ドラマは完成度の高いドラマの評価が高い訳ではない、こと。つまり、込み入った度合いが高くなると、作者の自己満足の範囲に興味のない視聴者はあっけなく引いてしまう。「面白い」って思って続けてみたい部分と、少しの「揺れ」があれば充分で、芸術作品は個々に時期があえば映画で見る、というのが大半の感覚な様に思う。簡単に言えば、視聴者は「わがまま」なのだ。そういう人たちをある程度、面白しろく思わせ、少し振り回し、最後は優しく見てあげて、土産ももたせる。案外それまで満足していれば、土産には文句は言わない。
今は完全にポスト・プロの時代。撮影は完全に素材、で編集に時間と手間をかける。ドラマも演出家はたいてい3組編成で、1つのドラマに時間がかけられる様になっているから、今迄のドラマ作りでは出来なかった様な濃さで作れる。自分が毎週担当から解放された、と言えるが、作品に対する「こだわり」が番組全体への責任感ではなく、作品1本(46分)に対する技術的な意味合いの濃い安定感的な「こだわり」になっている。