形式について

正月は最も日本的な雰囲気が漂う季節だ。でも何故なのか?ついこの前迄知っていた「正月とは」が相当希薄になってしまった。松飾りもとうとう今年は飾らず、年賀状も出してない。何故「おせち料理を食べるのか」も、ウィキペディアで調べないとわからない、という事態に。こういうのは大人の大半が知っていなければいけないような事なのに、だ。
寺と神社ではお参りの仕方が違う、とか、奉ってあるものを知ってお参りに行っているか、何をお参りした方が良いのか。いかにも曖昧なまま何かを祈っている。明治時代の人だってそれほど詳しく知っていた訳じゃないと思うけど、きっとこういう状態は今だけなんだろうと思う。
僕らの爺さんの時代に始まったと言われる「初詣」も自分たちの孫の時代には、なくなっているかも。200年後にはこうなったりして。以下仮説。
皇族周辺の課税化問題がイギリス並みに浮上〜寺や神社の厳格さが後退〜汚職問題が浮上し、坊さんが大量リストラし、葬式や法事が簡略化し、インターネットのお墓(これは実際にはすでにある)に「お骨」の所在問題等が暴露。とかね。
で、今度は「お墓」の話になりますが、東京人にとってはこれは大きな問題であります。都市部には墓が少ないであります。我が家で言えば、関東大震災〜東京空襲でバラバラになった骨は、浅草から築地を経て現在は杉並にあり、「骨の現物」は一部完全消滅して、関係者リストのデータ作成の際に不明瞭なは削除された。こちらも『一戸建て』は満杯でビルのロッカーみたいなのが分譲化されてます。「雨ざらしよりの快適なお参り」がキャッチコピーがついていたようなついてなかったような。これも典型的な形式化の時代に。
形式でも何でも、自分が何処から来て何処に行き、その螺旋の様な大きな「流れ」の一つでしか無い、ということを謙虚に受け止めるのは、言ってみれば形式でも何でも良いんだろうなあ、って「右側主義の人」には我慢出来ないだろうなあ、とも、「右の人」はイタリアのサンピエトロ大聖堂とかではお参りしないのかなあ?