銃乱射事件と時代劇

アメリカでまたも銃乱射事件。今度は小学校だった。銃社会構造については、コロンバイン高校事件以前からも問題だったのだが、マイケル・ムーア映画「ボーリングフォーコロンバイン」でも表している様に、直接的にアメリカの歴史と関わっている。西部劇に出てくるガンマンも、法で規制されているとは言え、何かとカッコ付けてバンバン撃つ。これは江戸時代以前の日本も全く同じ様に侍は人を切って殺すための「刀」を持つ。「法」と「思想」の違いはあれど、やることは同じ。秋葉原でナイフを振り回した様な事件もあの当時も多くあっただろうし、基本は変わってない。しかも、こういう事は絶対になくならないと思う。人とはそういうもんだ。もし、こういう「刀」振り回し事件がすくなくなって、昔はあったなあ、と思った瞬間。出てくる様に思う。ボクもボクの子孫もいつかは事件に遭遇する可能性はある。爺さん達や祖先にもあったかもしれない。
ここのところ気になるのは、こういう事件に対してマスコミの取り上げ方が「引き気味」で、かつての骨太(敢えて言うと)のドキュメンタリーが少ない。会社や当局に対して「もの申す」的な手法は、今やローリスクの「内部告発」で匿名性になり、個々で主張する様な時代になった。
乱暴に言えば、「教育」の問題が根源にあると思う。西側的教育システムが「レベルが高い」とも思わない。過疎なアフリカの村で幸せに暮らしている歴史を重んじた生活だって、「行き届いた教育や言い伝え」が浸透しているだろうし、更に乱暴に言えば「文盲率が低い」=「教育が低い」とも思わないなあ。
始めてアメリカに行った時に、街で見かける光景で日本と違う進歩的な社会に遭遇することがシバシバあった。例えば小さな事なんだけど、ボクがビルのドアに入る前に、前に入った人が開けたまま無言の「どうぞ」をコミュニケートしてくるのは、日本では戦後なくなった、みたいな「社会のあり方」を感じる一瞬で、日本には元々違う形で現れているんだろうけど、日本の場合は昔っから陰湿なんだよなあ。良く言えば「奥ゆかしさをたたえた愛」なのかもしれないけど、個人的にはそういうのは昔のあり方として理解できる範囲で残しておいて、もっとわかりやすい、というか現世界的な「はっきりと示す愛」の方がボクは好きだなあ。
思っている事が表現できなくて、焦れったいんだけど、文章力というのは問題ではなくて、僕らの場合は作っているものでナニかハッキリ示したいと思う。
今日の1曲。

音楽は世界を変えられない、って思うんだよな。本当に変えようとするなら違う事をする?音楽は凄いのは、例えばこの彼女の歌を聴いた瞬間、さっき迄と違う風が吹いているんだよな。だたそれだけだよな。