人は死んで何を残すのか。

お世話になった義父の三回忌に行く。山梨の山奥の小さなお寺で近隣の親類約15名ほどが集まって大雨の中での法要。お経は葬儀で飾った写真を仏壇に置き、その後墓参りして食事会。集まった方達は、義父に近い親類の参列には、唯一血の繋がっていないボクからも感謝したい気持ちでいっぱい。次々と亡くなっていく親類もいて、年寄りも多いせいか、淡々と進み、故人を偲ぶ時間さえあまりなかったのが残念と言えば残念。写真を持って皆さんで盛り上げていこうと思っていたが、完全整理した写真ファイルにも写真がほとんどなく持っていけなかった。
自分の時がどういう三回忌になるのを想像していた。報道のヘリが青山葬儀会場を飛ぶ訳でもなく、デザイン業界紙が追悼のページを割く訳でもなく、一般的な普通の葬儀になっているとしたら、家人が少々の見栄を張って大きな会場を借りて。通夜も告別式も300人くらいのもんだろうか。でも、これは死んだ年齢にもよるな。親類はボクの遺言によって誰も来ない。息子家族等が「会席よりケンタッキーが良い」とか言って日常の会話をしている、という光景が思い描けた。
残したものがボクなりに一般人と違うとのはすぐに理解するだろうけど、中身の違いに気づくのは一体誰で、いつ頃なのかなあ?
と思ったが、義父の様に何も残さず、静かに消えていく。しかも「ケンタッキー」の話でも出ようもんなら、かなりの完成度の高い「死に際」なのではないか、と突き当たる。確かに。