39年の友人

コピーライターの村山孝文君が昨年倒れた。昨年の夏。8月5日、僕らは1年ぶりの再会と今後の展望を話すために青山の蕎麦屋で飲んでいた。彼が倒れたのを知ったのはそれから2週間後だった。何故なら別れ際に「2週間後に会おうね」で彼と別れてその2週間後丁度に連絡がなかったので、気になって連絡をして知ったのであった。
現在はリハビリ中で完全な回復までの長い道を一歩ずつ進んでいるところだ。

彼はボクの古い友人で同業のパートナーであり、恩師でもある。僕らは蒲田のデッサン教室で出会った。美大受験のための予備校で、蒲田の弱小予備校とはいえ、20人の内19人が美大に入った特異な予備校であった。一人だけ合格しなかったのが村山君であったのが、彼は何と浪人の道を選ばず、その予備校に就職し、浪人等達にはいきなり学校側の立場になるという「離れ技」をやってのけた。
それから39年。絶えることなく付き合いは続いてきた。それが、一瞬にして切れてしまった。
今年のはじめに近い友人達と彼を支援する会を企画していたが、仙台にあったサーバーが使用不可になり今もって中断したままだ。
彼が復帰する日までは8月5日に話したことを暖めておくつもりだ。出来るだけ早い機会にお知らせできるようにしたいし、良い報告が出来ることを願っている。

それから、彼が残した数多くの名作迷作の山をどうしたらいいのか?自分ならいざ知らず、全部を網羅しているわけでもないので、途方に暮れる。週刊漫画雑誌の中吊り広告シリーズは1000枚続いたらしいが、彼は一枚も持っていないと言っていたし、ウイスキーCM「少し愛して長く愛して」で有名だが、意味不明なクレジットが出回ってややこしくなっている、から始まってボクの音楽関係の仕事にも付き合っても貰ったことも少なくない。
ボクの師匠(コピーライター杉本英介氏)と仲人(コピーライター眞木準氏)が相次いで亡くなって、言葉を編む仕事の「重さ」とは相当な重さなんだと感じている。