tokio kumagai

靴のデザイナーであり、服飾でも大きな足跡を残したクマガイトキオ(熊谷登喜夫)さんは1987年に亡くなって、数年後に仙台にお墓参りに行った。聞いた話ではお母様が1人残され墓を守る人もいなくなった、という。トキオさんと知り合ったのは86年で、佐野元春さんSWATCH編集部と作っていた「THIS」という雑誌だった。主にビート・ジェネレーションの文化的な側面を記事にしていたが、ボクがディレクションをやることになり(それまでに「流行通信」などは関わっていたが、独立したばかりで雑誌としては初AD仕事だった。)「オシャレにしたい」というのとも違って、80年代的な格好付けも相まってグラフィック的に何か自分の中で決めたカッコ良さを出し切ってみたい、というのはあった。問題は「何が、どういう風にカッコ良いか?」なんだが、見えるモノはしっかり自分の中にはあった。で、佐野さんにトキオさんの服や靴を履いて貰って撮影する、という話に発展してブランドに交渉した。最初は話も聞かずにNGだったらしい。(スタイリスト曰く)で、創刊号を見せたところ「こんな良い雑誌が日本にあったなんて知らなかった」って言ってくれて服などが無事借りられて撮影は完成。写真は凄く良かったのだが、出来上がった誌面をトキオさんに見せに行ったところ、べた褒めで気持ち悪いくらいだった。当時、自信はあったけど、評価がまるで低かった。前の年までいた事務所の師匠と比べられていた。今思えば光栄な話なんだけど、当時はそれを「やる気」に変える事は」出来ていなかった。
それからしばらく広報や広告関係の仕事を任せて貰った。楽しい仕事だった。それが、毎日デザイン賞の大賞受賞になってボクも参列することになった。その話をしたのは、トキオさんの部屋であった。具合が悪く立てる状態ではなさそうだった。しばらくして知り合いから「トキオさんが亡くなった」という電話があった。何故は聞きたくなかったし、実感もなかったので悲しくもなかった。
授賞式にはボクとBさんSさんと出席した。今思うと不思議な人との出会いでまるで夢みたいだ。
トキオさんに貰った靴はすべて無くなってしまい、コート類が4着にシャツが数枚のみ。が、自分の作ったプレスなどの印刷物は当時と全く変色無しでそのまま残っている。グラフィックというのは何故にこうもドライで平然としているのか?って罪深い気分になることがある。デザイナーは死んで何を残すのかってたまに考える時、必ずトキオさんが出てくる。ボクはトキオさんが亡くなった年齢(39)を遥かに超えてしまった。
図版は当時ボクが携わっていた雑誌広告で、カメラはピーター・リンドバーグ