楽しいことを考える

例えば、暗い気持ちになっている10,000人がいる集会と、これから楽しみが待っているワクワクな10,000人が集団とでは、完全に発しているモノが違う、というのは誰でも理解できるけど、説明は出来ない。例えば、目を閉じて誰かが頭の上に手をかざしたとしたら、何か感じるモノがある、というのは誰でもわかってくれそうだけど、説明は出来ない。
つまり、形而上的な何か、を僕らは常に感じていても言語化はおろか、説明も出来ないんだ。映画「スターウオーズ」でいうところの「フォース」は東洋的なこういうモノを指している。医学もそうだけど、生きているだけで「不思議」なのだという東洋的なある種の考えの方が西洋的な物理よりも遥か先の感覚がクラシックになっているところが面白い。
普段我々は守られた世界でこういう感覚が麻痺していて、何か突発的な何かでやっと気がつく、のだ。ボクは小さい時から「祭り」が大嫌いだ。収穫祭のような意味は理解できても、「無礼講」や「特例」は好きじゃなかった。特別な「ご馳走」よりも「たまごかけご飯」の方が好きなんだ。「何でもない普段」が好きなんだ。だから、まわりの大人に「面白くないヤツだ。」とか言われた。
普段という何でもないことがどれほど大事かをわかっていたわけじゃあない。「特別」を良いわけにしている、人の「弱い部分」を見るのが嫌なのだ。黒澤明のテーマとほぼ同じ。
今は楽しい事を考えて何か自分らしいエネルギーを出すことが出来そうな気がする。「福島に行って何かやりたい。」って友人に言ったら、「俺も」って言ってくれた。彼はこうも言った。「見えない恐怖におびえるのはわかるけど、もっと近いところの人よりこっちの方が大丈夫だろう。売っているモノも多分大丈夫だろう。でも安心は出来ない。これからはそういう日常になったんだ。」これが今のところの適切な対応と同調出来る。
30年前、学生の頃、原爆や放射能に関する書物や資料に関心があって読んだものと今発表しているモノが違うとしたら、そこにあるのは何か?それが「弱さから発するモノ」かもしれない。