人間性と作り手

若い頃に思いっきり教育的指導を受けたのは今や完全に自分の色に塗り替えられている、とは云え、たまに若手(主に35才まで。30以下は売り出し中で、25以下は新入り。)を見ていていろいろ思い出す。
先日、あるシンガーから「物作りは人柄で、その人が作るものは皆好き、ということあるでしょう?」と言われ、悪い気はしないけど、買いかぶっちゃいけない。「人間性が素晴らしい人が良いものを作るとは限らない。悪人でも圧倒的に美しいものを作る事も多々ある。」その人が言っていたのは、そういう事じゃない事くらいはわかるので、それ以上は言わないけど、少しだけわかってほしいのは、モノツクリの言うところの「人間性」とは、究極的なレベルまで言った際に最後の最後で出てくるレベルが「人間性」ということではないか。それまではちょっと違う。
モノ作りが半端で「人間性」とか言われると、矛盾に矛盾を混ぜた「屁理屈」の世界に陥る。もの凄く薄っぺらいグラフィックなどと言う世界にいると、薄さ故にもの凄く厚みを持って語りたくなっちゃうわけだけど、作っているものを見りゃほぼわかる。わかんなきゃ意味がないとも言える。わかんない人にはずっとわかんない。
ピカソの模写が凄く巧くいってもその人が自分の絵を描く時、それはステップの一つでしかなく、その模写に意味があってもコンガラカルだけでしょう。マチスとミロの模写を今年に入ってからずっとやっていて、いろいろな事が体験できた。それは「自分らしく自分だけの絵が描ければ、それが一番新しく、幸せなのではないか?」ということ。
描いているものを今のところ人に見せる気にはならない。恥ずかしいという感覚もない。早く見せたいと思う方が強い。が、下手なものを見せたくない。巧いとか、努力した、とかも言われたくないなあ。「なんだ!馬鹿じゃないの?」「見た事ない。」と言われてみたい。