「日記を書く、または読む」を考える

自分の制作稼働ツールがパソコンになって24年目(だそうだ)。今まで保管していたパソコンの書類を見たら、50台近く買ったりリースしてきた(らしい)。ほとんど使用しなかったノート型も3台、あっという間にクラッシュしたウインドーズが4台、まだまだ使用出来る高級モニターが3年リース終了でゴミ扱いされ、最初に買ったクラシック2の画面はスペースシャトルの窓より小さい(感じ)で、いい加減貯まりに貯まったマウスの残骸を不燃ゴミ出しし、昨年まで大活躍していた10年モノデスクトップパソコン2台を無料回収に応募し待っていたが半年経って引き取られた。これで、現在のiMac4台で全て作業、という環境になった。でも、アイフォンとかiPodなど端末は増えるばかり。家にはアイフォンだけで4台もある。テレビもパソコン可してきているから、コミュニケーションがコンピュータ経由での表現や感受性などが主体に(無意識に)なっている。で、最近思った「日記」を書く、とか、コミュニケーション道具としてのコンピュータを過信している部分について。
日記とは「本当は発表したいけど発表しない個人の事」が、簡単に同意や共感を求める方法になっている、などは既に書く必要としない考えになっている、こと自体が問題だ。しかも、同意は求めても同意を進んで進言しない。
ボクの先輩で巨匠デザイナーは日記で有名な人だが、その人も「ブログは雑念のゴミ箱」と書いて面白がっている。その人の昔の日記には、「今日はセックスしたとか、昨日会ったアイツは本当に苦手だ。」とかかいていて、ココまで率直に書けるいわゆる一つの表現力と愛嬌に真偽は別にして納得がいったものだが、最近の巨匠もその点は上手くはぐらかしている。「今はそんな事書いたって読み手が共感しないし、怒らせるのが関の山。」と言わんばかりの書き様である。それ自体も先輩の所行として若輩はある種見習う事が多い。