after NDC

NDCを辞める決断をしたのは、3つあった。ひとつは、石岡怜子(りょうこ)さんが当時作ったジャズのアルバムのジャケットを見たこと。それは菊地雅章さんの「SUSUTO」というアルバム。マイルス・デイヴィスに感化されアフリカンのポリリズムを導入した音楽だが、全く反対の感覚がビジュアル化されて際どいバランスで美しく成り立っているジャケットだった。そのジャケットに多分ミュージシャン以上に反応して石岡サンの弟子になりたいと思った。二つ目は、現状打破。NDCで3年も経つと自分にアシスタントがついて(バイトも入れて3人くらい)なんか妙な先輩風を吹かしているような気分が自分でもわかった。とにかくそれが嫌だった。三つ目。石岡さんを紹介してくれたイラストレーターの(今や北海道「シゲチャン・ランド」の主で有名な)大西重成大先輩や当時のADのサイトウマコトさんが反対するどころか凄く応援してくれたこと。
石岡さんの事務所の面接を受け入社するのだが、それは面接から1年後だった。面接の後、石岡さんのパートナーの杉本英介さん(当時は怜子さんの旦那さんで、怜子さんのお姉さんの石岡瑛子さんと仕事しているコピーライター)から手紙を貰った。「50人ほど面接に来て貰って元エピックソニーにいた野本さん1人だけ採用に決まった。君は二番目だった。君には気合いを感じたので今後期待している。」という万年筆の字が優しくて、更にやる気が出てきた。
サイトウさんは「オレが独立したら一緒にやろうぜ」って言ってくれた。数ヶ月後、サイトウさんの知り合いに会うのについていったのが、原宿セントラルアパートにあった「The Studio Tokyo」という事務所だった。そこにはかの奥村靫正(ゆきまさ)さんが主宰する事務所で、3人くらいのデザイナーがNDCとは違う動きで仕事をしていた。元プラスティックスのタチバナハジメさんも間借りしていた。奥村さんがその時に作っていたのが、YMOのジャケット「BGM」だった。ラフレイアウトがコピーの上に置いてあり、サイトウさんと奥村さんが楽しそうに話している間、僕は「BGM」のラフを手にとって見ていた。