カメラマン松本康男さんとは1

僕が29才でグラフィックデザイナーで独立するまでにはいろんな勉強だった。かつて「修行」と言われたものに近かった。今では美術の専門的な学校に行っていなくても、コンピュータがあれば図案をそれなりの設計するのに大して時間がかからないけど、かつては印刷物にするのには高度な専門知識が必要だった。例えば、雑誌だと、かつては文字ページは活版、つまり活字(金属の文字の版を組む)のデザインと、カラー写真ページのデザインでは、分野が違っていた。活字は印刷所に近い職人の世界で、実際には版を組む訳じゃないけど、知識がないと組めない。カラーは被写体や編集側に近い立場の理解している人で、週刊誌の表紙は「売れるタイプ」を理解していないとダメで、カメラマンとトレンドの解釈が「ひとつの売り」つまり個性であり、商品に近いモノであった。「修行時代」にそれこそ、自分の師匠以上にいろいろな経験をした。ボクの時代には時代の過渡期であり、多分野がクロスオーバーに変貌した時代だった。80年代にコンピュータを導入し制作が完全に移行するのは見えていた。次に関わる人達もそれによって美術系でない多数派参入も読めた。だから、最初に雑誌を任された時の頃は、様々な思考や展望が混じって整理できなかった。70年代に「コンピュータで書いたような文字」に挑戦したのも、そんな気持ちの現れだったと自己分析している。
で、独立してしばらくして雑誌をやることになった。編集と対等もしくはデザイナーが主役、という時代はやや陰っていたが、若かったので、そんなのは無視。好きなようにやってみたかった。「修行時代」はすべて受ける立場で考えねば「流れ」は理解できない。漫然としているつもりはないのだが、肉体的な限界に達すると(1週間徹夜とか)思考力が減退するのだが、それが許されないのが修行。つまり、年上の師匠も同じようなもしくはそれ以上の限界に達しているからだ。
それから解放されて自分がいざ仕切るとなると、慣習的な「技」は全く無力で、明快なビジョンと圧倒的処理能力が必要になる。それも把握した上で編集テーマを理解し、マーケッティング的な意味を持つ「目立つ」という一般に言う感覚的というより「動物的な勘」が必要になる。で、雑誌をやるまでの数年にため込んだ「引き出し」を全部出してみる。
と、浮かんだのは「それまで教えてくれた師匠世代に見せつけるような迫力が欲しい」「決め、ではなく品の良い崩し」同じようなことだが「典型ではなく新型でもなくベストな提案」とか、で巡って巡って、4-50人のカメラマンと会うことにした。
ある雑誌で見たLounge Lizardsの写真、モノクロ写真で手が止まった。Matsumoto Yasuoというクレジットがついていた。Cueという雑誌で、鈴木誠さんがADをやっている頃だった。1986年。(続く)